しのびよる破局

レビュー

本質を見抜く心と目、そして肉体

 感動をもって読みました。これまで私が漠然と感じていたことなどとも共通
性があり、問題の所在が明確に文章化された、と思いました。

 破局の本質を見定めるには、ものごとの根源に迫る感覚(心と目)をもつ
ことが大事。メディア等によるコーティングや資本主義の罠にだまされるな、
「他者への痛み」を感得できるようになることで、心の内面の危機を発見する
ことが重要だ、というのが趣旨と思いました。バーチャル世代のリアル感覚麻痺
への危機も訴えられています。
 題材として秋葉原事件、年越し派遣村、山谷(さんや)地区での体験、サブ
プライムローン、パンデミック(カミュの「ペスト」なども)、資本主義、
ファシズムなどが語られます。

アメリカ合衆国が発明したイカサマ金融商品のことは1997年すでにフランク
・パートノイが「FIASCO」(邦訳は「大破局」:徳間書店)で警鐘をならして
いました。2009年のあるNHK特集において、サブプライム問題がらみでのイ
ンタビューにでていたので記憶のある方もあるかと。
この警鐘は残念ながら、「コーティング」の危機、いいかえれば大衆の(根源
悪に対する)無感覚化システムによって10年以上も活かされなかったことに
なります。警鐘はなされても資本主義の力には勝てなかった事例です。

メッキをほどこされた欧米型の虚構の民主主義

資本主義とは、端的に人々を病むべく導きながら、健やかにと命じるシステムである。
悪というものが見えない。いまは、悪が悪の顔をしていない。善の顔をしている。

マスコミは、体制の潤滑油として日常を上塗り(コーティング)する。巨悪を許し小悪退治に余念がない。

末期資本主義、それは物象化・フェティシズムが人間世界全域におよび人格が崩壊(人間であるがゆえの恥辱に抗う魂)し、人間が分断され逆立ちして踊り続けている状態である。
また、資本は反体制・反権力のイデーを含む思考をも静かに和やかに腐敗させてゆく。反体制とは緩衝材、補完物としての一面がある。
マスメディアは体制批判の体裁で免罪符を得ながら体制を補完するから手に負えない。もっともらしい善人ずらには気をつけろ。である。
略するが、私たちはどう生きるか。について末期の眼の視点から記されている。

資本主義に抗してもっと他者への想像力を!

本書のテーマはこういうことである。

人びとを病むように育て導きながら健やかにあれと命じる現代の資本主義社会は、人間の生体にあっていないのではないか。

同時にこのような資本主義社会を支えてきたマスコミ、飢餓と大食い競争が共存するマスコミの無意識の荒みに対するいらだちも強い。

カミュの「ペスト」がしばしば引き合いに出されるが、この小説の時代と現代の違いは絶対悪が当時とは違って善面をして、なんの恥じらいもなく人々の無意識の荒みをたよりに堂々と社会を闊歩している。ペストなら見えるが、現代の絶対悪は見えない。

結局、愛とか誠実とか痛みという、上っ面を流れていきそうな凡庸な言葉をもっと手触りのある言葉として考えていくというのは、他人に対する想像力をもっと鋭くしていこうということになるのだろう。

かつてない価値観の危機に瀕した時代に、人間とは何か、どうあるべきかを問う啓蒙書

本書のテーマは、世界経済恐々の背景にある、かつてない程の人間の価値観の危機に対して我々(ローマ帝政時代のコロッセオの見物を許された者)が「人間とは何か、人間はどうあるべきか」熟考し、あるいは抗暴に訴えかけるべき時に生きているというものです。

TV放映内容が主なので、辺見さんの他のノンフィクションより読み易いと思います。TVは実家で録画してもらい海外から帰国した先月に60歳を越える母と見ましたが、政治や社会に殆ど関心が無い母でさえ、辺見さんの深く思考された上での語りに何か重要な情動が触発されていました。

今の時代、今の日本人が精神的危機(価値観の危機)に瀕しており、それを何とかしようと一般の人に問いたのは、宮崎駿の「崖の上のポニョ」であり、若者を支えようとしたのは押井守の「スカイ・クロラ」だと僕は理解しています。言論、ノンフィクションの世界においては、船井幸雄さん、副島隆彦さん、佐藤優さんらが警鐘を鳴らし続けておられますが、辺見さんの言葉と感受性は最も透徹しており、実時間において世界の位相を感じ、言葉に表現できる稀有な作家のとても重要な日本人への啓蒙の書です。

蛇足ですが、5月9日の早稲田での講演に赴き、私自身もこの危機に自分がどうあるべきなのか改めて自問自答してみるつもりです。

すばらしい力作

購入時はすぐに読んで売ろうと思っていたが、何回も熟読すべき、蔵書として所有すべき本と思い直した。
カミュの「ペスト」が何回も引用される。「ペストと戦う唯一の方法は誠実である」という言葉の凡庸さに何度も回帰し、誠実、愛、痛みと言う言葉をもっと手触りのあるものとして反芻すべきと筆者は主張する。