渋江抽斎    中公文庫

レビュー

近代日本文学の最高峰???

鴎外晩年の傑作という評価が定着しており、例えば丸谷才一は、これを「近代日本文学の最高峰」と讃えています(「プレジデント 50 plus」2009.7.15号別冊)。

「う〜ん・・・。あの、これって、それほどのものなのでしょうか????」

どうも、森鴎外絶対不可侵という雰囲気が、日本の旧インテリ層にあって、めったな事を言っては罰が当たりそうです。

丸谷才一曰く、「よく知られていない人物を題材にして、探偵小説のようにすこしずつその人物のことを解き明かして行く。しかも、そのプロセスが鴎外一流の見事な文章で書かれている」。確かにそうです。尋常じゃないほどの緻密さで、詳細な事実が積み上げられて行く。抽斎本人の年代史のみならず、その伴侶、子供、親、親戚、恩師、弟子、知り合いの知り合いまで、何世代にも渡る人物の生年月日から、墓碑銘まで。鴎外は、縁ある場所を実際に訪れ、徹底的に調べ尽くします。恐るべき「考証力」と言えましょう。

「無名の人物にも、誰も知り得ない深い人生の断面が存在するし、年代を超えたつながりというものが脈打っている。」それは、分かります。ただ、ここにドラマがあると言えるのでしょうか?

ドストエフスキーを、「我を忘れ度の最高峰」といった人がいますが、小説の醍醐味はまさにそこにあるでしょう。「カラマーゾフの兄弟」にひとたび没入してしまうと、その物語世界のめくるめく展開に、濁流にのまれるように翻弄されて行く。登場人物が、実在としてありありと感じ取られ、それぞれの「人生」に、ともに泣き、喜び、怒り・・・。まさに「我を忘れさせてくれる」のが文学であると。

その点から、この「渋江抽斎」が「近代日本文学の最高峰」であるとすると、正直、ちょっと寂しい気持ちがしてしまいます。

まず、主人公抽斎の人柄というものが、一切伝わりません。ひたすら読書と調べ物が好きな医者ということ。それだけに近いです。そういう意味では、奥さんの「五百」の方が、まだ人間味が感じられます。ご主人の身が危うくなったとき、風呂から飛び出し裸で短刀を忍ばせていく。なかなかのエピソードです。

しかし、主人公そのものがこれだけ存在感の薄い物語って、ありなんでしょうか?丸谷才一も「鴎外の小説に出てくる人物に魅力がない」と認めています。え?それって致命的でないの??

さらに、「渋江抽斎の続編である「伊沢蘭軒」、「北条霞亭」と読み進めていくこと」を薦めていますが、正直、もう十分という気がいたします。丸谷先生に質問してみたいです。「例えば、あくまで例えばですが、三島由紀夫の『豊饒の海』と比べても、『渋江抽斎』の方が上でしょうか?」と。

鴎外の大傑作

鴎外作品の中でも一般にはあまり知られていないタイトルであるが、
この作品を鴎外の代表作として第一にあげる文人は意外に多い。

鴎外の文章は簡潔を旨とし、一切の感傷を廃する強靭な文章として有名だが、
作品として通読すると、その文章の後ろ側に、多分に人間的なセンチメント、人生の哀歓を感じさせるものが多く、
この「渋江抽斎」などはその代表とも言える。

文章はまさに一分の隙もない、簡潔強靭そのものの文章で、全くの遊びがない。
それでいて、堅苦しさ・重さは感じさせずに、読み手をぐいぐい引き込んでしまう。

無論、鴎外は人物・出来事・エピソードなどを面白おかしく語る作家ではない。
むしろその逆の印象を持たれている作家なのだが、
この作品の諸所に描かれている人物譚・エピソードの立体感、臨場感、
鴎外の腕はまことに尋常ではない。

「渋江抽斎」の一見、淡々とした叙事的な流れに欠伸を禁じえない読者も多いだろうし、
簡潔さの背後に潜む、情味・哀歓を感じ取れない読者も少なくないと思う。
また、少しでも見慣れない漢語に会うと読む気を殺がれてしまう読者も多いと思う。

好みや、読書力は人それぞれなので仕方がないが、
日本人で、読書好きならば一度は手にとるべき古典的傑作だと思う。