台風の眼 (新潮文庫)

レビュー

不思議な感じのする自伝小説

 タイトルの言葉が出てくるのは、作者が学生時代にイリヤ・エレンブルグについての作家論を書く部分である。このロシア(当時はソ連)の作家はいわば“台風の眼”だという認識のもとに、論を展開していくわけだ(その作家論の概要までが本書に書かれているわけではない)。日野啓三に対するそのような確固たる認識があるわけでもなく、本書についてのレビューを書いているというのも、少々複雑な気分になってしまうのだが。
 自らの少年時代から海外特派員としての経験までを描いた自伝的作品であることは間違いないのだが、それに現在の状態、心境を組み合わせていて、さらにその現在には「ゴースト」が出てくるというのが、普通の自伝小説ではないところだ。「ゴースト」と作者が呼んでいるものは、たぶんドッペルゲンガーと言ってもいいのだろう。まあゴーストがいなかったとしても、やはり小説の不思議な感じは保たれるだろうが。
 最後にクローネンバーグ監督の名前がちょっと出てくるが、短編集『どこでもないどこか』の中の『メランコリックなオブジェ』を読んだ時、クローネンバーグ監督の『戦慄の絆』を連想したこともあったので、やはりつながりがあるんだな、と思った。

「想起」できることが現実だ

日野氏にとっての「現実」とは、単に「いま流れている時間」のことではなく、自分の生の中で、両の手で数え上げられるくらいの場所と時点で、一種高められた意識の状態になりうる出来事・意識の深層が開かれる状態になりうる記憶、何年何十年経とうが、その出来事を現に内側から体験しつつあるように知覚できる状態になること(「想起」)の集合のことである。それは、一般的には、記憶に対応する過去であるように思われるが、日野氏に言わせれば、そうではなく、そういった「想起の集合」こそが、常に「現在(現実の実在)」なのである。

氏が、「最後の小説になるかもしれない」という思いで、この作品を書かれたことが、その六十年の人生に於ける過去の集積の描写で、まざまざと感ぜられる。しかし、やはり氏にとっては、こういった魂の内側から「想起」し得る「過去」というものの集合こそが、常に「現在」なのであり、病み上がりとは思えない、「現実を生きている」という筆力が、文字の奥から蠢きだしているように思える。故に、懐古心としての作品ではなく、飽くまで「現在」の作品として、この作品は捉えられる。三島由紀夫の『仮面の告白』的な形式、あるいは明らかに『仮面の告白』を意識した表現が為されているが、読み比べても面白いかと思う。日野氏の何かの短編作品に、「仮面ではなく表面」という表現も為されていたが、氏は、仮面の奥に通底する、妖しく蠢く、現実ではない現実の魔の力を意識していたからこそ、こういった表現をされたのであろう。「当たり前のことが、なんて素晴らしいんだ」という表現などを筆頭に、骨身に滲みる表現が、時に読者に突き刺さることは必決であり、氏の魂の光景が、読者のそれと不思議にシンクロする体験も、味わうことが出来る。

現実と幻想をつくる意識

エッセイ風の個人的小説。作者の意識の目覚めた時、少年期と中国とのつながり、学生時代に自覚していたことなど、時代を追って甦ってくるが、すべての「記憶」は現実と結び付いている。

日野啓三はこの作品の中で日本語を駆使している。とても意識的でクレイジーな人である。個人の感覚のぎりぎりの部分を書き写すことに成功していて、初めて日野啓三の文学に触れる人は、たぶん一度読んだだけでは理解できないと思う。ミステリーのように話が複雑なのではなくて、独特なのだ。

本人の生きてきたものと幻想とが作者の意識(妄想のような。)で造形させられている。現実はもっとシンプルなはずなのに、こうも屈折して観ることができるのかと思う。夢遊病者の感覚はこういうものかもしれない。

あらためて、自分が意識を持っていることに気が付く。「啓示」という感覚をこの小説で知ることができるはず。

自分を正面から見つめた小説

日野啓三は、全般的に自分の経験を題材に小説を書くことが多いようですが、この小説もそうしたものの一つ。特に継続性を持たせず、記憶の中にあるいくつかの眩しい瞬間を見つめ、意識と現実のはざまを行ったり来たりする文体に戦慄を覚えました。

自分の意識の中に深く入り込み、自己の存在基盤を確認すると同時に、それを曖昧にもしていく、日野氏のこの小説は、読者に「自分とは何か」という根源的問いを投げかけます。

読めば読むほどに、忘れていた記憶たちが意識の彼方から次々にやってきてしまう、そんな体験を通して、自分を見つめ直したい人にお勧めの小説です。