新編 風の又三郎 (新潮文庫)

レビュー

風の精

 小学校時代に読んだ。

 最後まで「風の又三郎は 風の精でした」という一言がなくて 
もどかしい思いをした事を憶えている。どう考えても 風の精のはずなのだが。宮沢賢治も意地悪だ。当時はそんなことしか思わなかった。

 それから30年経った今考えるとどうかとさっきから考えている。
他のレビュアーの方も仰っているが 宮沢賢治の「力」は その独特
の「日本語」にある。実際 賢治の言葉は 言霊ともいうべき魔力に
満ちている。こんな独特な日本語は他ではお目にかかれない。

 賢治の資質は 基本的には詩人であるというのが小生の独断である。
そんな詩人が書いた童話は 散文詩と言ってよい。風の又三郎も 
そんな詩人のマスターピースの一つである。それも比類の無い。

 風の精だったのだろうか。未だ 迷っている。後20年くらい経ったら そうしてその時生きていたら また 考えてみたい。 

又三郎と子供たちの心温まる童話

 どこから来たのか、朝の教室に見知らない赤髪の子供が座っていた。やがて教室に風が吹いてきた時、「ああわかったあいつは風の又三郎だぞ」と誰かが言うと,他の子供たちもそう思うようにもなった。先生はその子が転校生高田三郎だと紹介してくれた。
 又三郎はひらっと空に飛び上がって、ガラスのマントを光らせながら空を飛ぶ。不思議なこともいろいろあって、友だちといたずらもしながら時を過ごす。又三郎と耕助が喧嘩の後、仲直りする場面は微笑ましく感動的である。川でみんなで泳いでいる時、雷が鳴り、夕立がやって来て、誰ともなく「雨はざっこざっこ雨三郎 風はどっこどっこ又三郎」と叫び合うと、又三郎が聞きつけてやって来る。
「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも、吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ」
 ある朝、担任の先生に「高田三郎さんは昨日お父さんといっしょにもう外へ行きました」と伝えられるが、子どもたちはそうではない、「やっぱりあいつは風の又三郎だったな」と思う。
「風の三郎様」は風童神として現在も岩手・新潟などで祭礼がある。「又」の字を加えたのは賢治の創作。東北方言その他で「マタ」には妖怪の意があるという設定の名残りである(雅)

感動します

最初の、やまなしは私が中学生のとき教科書で読みました。当時は、クラムボンはかぷかぷわらったよ、というのが印象に残っただけでした。大人になって読みかえすと、なんて幻想的で素敵なお話なんだろうと思います。風の又三郎はあまりに有名でいう必要ないですが、やはり、誰でも子供のときの純な心を思い出すのではないでしょうか。ラストは何度読んでも感動してしまいます。そして、私がいつも読むたび涙がでそうになってしまうのが、この本に入っている虔十公園林です。短編で、あっという間に読めてしまいますが個人的にはお勧めです。

再発見

宮沢賢治の作品は誰もが子どものころに一度は読んだことがあると思うのですが、大人になってから読むとこんなに深い物語だったんだ!と再発見があります。なにより、独特の日本語が美しいです。