阿部一族・舞姫    新潮文庫

レビュー

文語作品の方が内容的に面白い。

収録作品は、

『舞姫』
『うたかたの記』
『鶏』
『かのように』
『阿部一族』
『堺事件』
『余興』
『じいさんばあさん』
『寒山拾得』
(『附寒山拾得縁起』)

である。
最初に収録されている二作品が文語作品、残りは口語作品である。

やはり『舞姫』が内容的に最も面白い。エリスの可愛さは不朽となるだろう。
注目して欲しいのはエリスの仕草である。描写は事細かであり、なんとも言えず可愛らしい。
最後二頁を読み終えたときには、自然とため息が漏れることだろう。

その次が『うたかたの記』であろうか。
エリスとは一味も二味も違うマリイの姿を是非、凝視して頂きたい。
もう一言付け加えるなら、台詞が凄まじく格好良いのである。

どちらの話も起承転結がガッチリした、スピード感溢れる物語である。
文語ゆえの取っ付きにくさはどうしても否めないのだが、それでも未読の方には是非読んで頂きたい。
現代語訳から読んでみるとか、漫画化作品に手をつけてから原文を読むとか、手はある筈だ。

小倉左遷時代の森林太郎のパートナーは、鶏!?

明治の大文豪、森鴎外の短編集『阿部一族・舞姫』です。
発表年代順に作品が収められているので、『舞姫』『うたかたの記』が最初に来ています。この二作が非常に読みにくいので、『鶏』あたりから読み始めて、最後の『寒山拾得』まで読んで鴎外ワールドにハマってから最初に戻る、というのも一つの方法だと思います。
『鶏』は小倉左遷時代の鴎外の暮らしぶりそのまんま、って感じです。大文豪、かなりユニークな人物であったことが垣間見えます。
『阿部一族』『堺事件』などは歴史小説です。かなり凄惨な事件であっても、淡々とした筆致で描き出しています。今日の歴史小説と比べると、エンターテインメントとしての完成度では洗練されていない感じもします。山場を良く見せる演出に凝るのではなく、歴史をそのまんま書く、というアプローチだからでしょうか。淡々と描いているからこそ、純文学としてのテーマは深いのではないかと思います。『阿部一族』などは、君命や世間体といった大きな力に対して、弱き者はどうすることもできず翻弄されるだけという不条理が痛いくらいです。

歴史そのまま・・・

 肥後藩主・細川忠利の死に際して、阿部弥右一衛門だけ殉死者に加えられずに生き残ります。 

 ところが、周囲の取沙汰に耐え切れずに腹を切ります。嫡子権兵衛は侮蔑を受けて武士を捨てようとした行いが咎められ縛り首にされます・・・

 その後、一族は藩の討っ手と闘い滅亡してしまいます・・・

 封建社会の「殉死」と武家の「意地」を取り扱った歴史其の儘(れきしそのまま)の小説です。

 大正期以降、乃木稀典(のぎまれすけ)の殉死事件を機会に歴史小説を手がけるようになったそうです。

 文体は、非常に淡々としています。渋いです。ドラマのような波はありません。本当に‘そのまま’といった感じですよ。

 上司が死んだら自分も死ぬ・・・できねば、恥さらし。
私には、できそうにありません。臆病者ですね・・・
それとも、現代人として当たり前でしょうか?

鴎外の舞姫、川端の踊子。

鴎外の逆ストーカー小説「舞姫」。ドイツ留学中つきあっていたドイツ娘に日本まで追いかけられた話。彼女、当時飛行機もなかった19世紀末、ご苦労様にも海路はるばる極東日本まで、本邦初のインテリ作家兼軍医森林太郎氏をストーカーしていらっしゃったんですねえ。お疲れ様でゴザイマス。それで感激しちゃって軍医様、小説にしてしまわれました。

森鴎外の「舞姫」と川端康成の「踊子」。このふたつは丁度ふたりの作家の相違、そして両者の個性を知る上で素晴らしい対比を成していると思います。鴎外は西洋の女に追いかけられるようにして文学に着手した。そして川端は伊豆の海の上に日本の女を発見した。美しい宝石のような女達。男にとって文学とはこのように、芸術の対象として永遠の輝きを放って美しく、そして尽きせど汲めぬ魅力をもって誘惑的であり続ける。

「舞姫」は鴎外の至高の芸術作品、理想の恋人です。

どの作品も味わい深い短編集(1)

 1890年(明治23年)に発表された「舞姫」「うたかたの記」と、「鶏(1909年、明治42年)」、「かのように(1912年、明治45年・大正1年)」、「阿部一族(1913年、大正2年)」、「堺事件(1914年、大正3年)」、「余興」「じいさんばあさん(1915年、大正4年)」、「寒山拾得(1916年、大正5年)」を収める。
 「舞姫」「うたかたの記」発表時、鴎外は28歳。しかし、小倉左遷を経験し、再び、執筆活動に戻ったのは、1909年、47歳のときだった。
 「阿部一族」「堺事件」「じいさんばあさん」「寒山拾得」は、史実に取材している。変わっているのは、「かのように」と「余興」だ。
 「今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えることは出来まい。世界がどうして出来て、どうして発展したか、人類がどうして出来て、どうして発展したかということを、学問に手を出せば、どんなに浅い学問のしかたをしても、何かの端々で考えさせられる。そして、その考える事は、神話を事実として見させては置かない。神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外の神霊の存在は疑問になって来るのである(「かのように」)」。「己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安んじて恬然としていなくてはならない(「余興」)。
 一般に、保守派と目された鴎外だが、内面は、熱い。しかし、独特の諦念、運命論的なところも見え隠れし、味わい深い。同じ新潮文庫の「山椒大夫・高瀬舟」と合わせて読むと、鴎外の概要がわかる。