逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)

レビュー

「呪術観」で見直す歴史は面白い

かねてから学校で学ぶ歴史授業に不満をもっていた。歴史とは、論理的な人間の行動の積み重ねだと私は思っている。しかし歴史事実の背景を学ぶ機会はほとんどなかった。事件や事象の記憶作業に終わることなく、今ある自分自身に繋がっている歴史を感じることは私にとって大変愉快なことだ。井沢氏の歴史の捉え方は、これまでにない視点で論理的に歴史を整理しており大変楽しまされる。本書では、「呪術観」のフィルターで古代を見つめ直す。このフィルターは、現代の私達には違和感を感じるものだが、読んでみると、これほどスッキリ腑に落ちるものはなかった。個人的には「出雲大社」の歴史に興味を強く持った。それから、歴史研究の観点において、著者は韓国人を批判している。お互いを尊重しあい当該分野での協同がなされることが期待される。

鉄人823号

従来の歴史学では見えてこなかった当時の実情が見えてくる。小説家が歴史を推理する事の意義は大きい。つまり推理が必要な様に当時の記録は残されているのだから。発想の転換によって、ようやく歴史が見えてきた。

内容が不正確

筆者の言霊論は大変興味深いし、左翼史観・戦後民主主義批判には共感するところがある。しかし、歴史の専門領域に入ると、知識不足や議論の粗雑さが目立ってくるようだ。
たとえば筆者は、歴史の専門家を史料至上主義と批判しているが、筆者が言うように史料にないから「そういう事実はなかった・・・間違いである」(35頁−安土の地名の由来について)などと主張している専門家が本当に存在するのであろうか。それは、様々に考えられるが、史料がないから確定できない、言及できないということではないだろうか。逆に、安土が旧来の「あづち」に由来するものではないという確証を、筆者は示せるのであろうか。それに信長以前に、旧来の地名を変えた人間はいなかったと、なぜいえるのか?史料にないから?それじゃ自己矛盾でしょ。
筆者は、論理的に考えれば答えは一意的に定まると考えているようであるが、もしそうなら学説の対立ということが起こるはずがない。学説の正否=論理の正否ではなく(そもそも論理が間違っていたら学説といえない)、観測事実をどちらがより整合的に説明できるかである。したがって、常に説と事実の突き合わせが必要であるが、歴史では事実を確認するのが困難な場合が多い。そのため、結論が明確でなく欲求不満を感じることが多いが、だからといって検証なしに断定してはならない。
このレベルの本の評価が高いのは困ったことだと思う。

さてさて、諸説紛々。

司馬遼太郎・吉川英治・山岡荘八・子母澤寛
など日本の歴史に取材した小説を専ら愛読してきました。

当然ながら、これらの巨匠たちは物故しているので、
新作の上梓は望むべくもありません。
それで、たどりついたのが、本作のシリーズでした。

従来の資料重視の《マルクス史観》を井沢氏の
怨霊&言霊理論を軸に旧説に鋭くオブジェクションを
加え、《井沢史観》を縦横に展開する・・・といった
構成になっています。

週刊誌の連載ということもあってか、時に
閑話休題が長くなってしまい本筋から結構
それてしまい肝心のテーマがぼやけるのも本書の特徴です(笑)
しかし秀吉の多指症の紹介など、興味深いトピックスも
鏤められて飽きさせません。

少し気になるのは、“批判”の手法というか
姿勢ですね。もう少し“ため”があってもいいと思います。
人間の歴史はある意味“あやまち”の歴史でもあると
私は思うからです。

今のところ、出版ベースでは『享保の改革』までですが、
それこそ、近現代のくだりは今から楽しみですね。

日本歴史の通史という点では、いいテキストでしょう。
但し、使用上の注意をよく守ってお使い下さい・・・と
いう感じでしょうね。

権威の批判は結構だが・・・

とにかくこの作者は学会や偉い学者先生のハナを明かしてやろう、という気持ちが強い。 そのために確証のない自分の推論を主張する事に執心しているように見える。 史料絶対主義の批判は結構だが、それに対する反説が独自の強引な推論だったりして、まあどっちの説も似たり寄ったりの説得力のなさかなと・・・ 違う視点から日本史を見る楽しさはある。 良くも悪くも雑誌のコラムのような軽い風味。 素人の世間話程度のニュアンスで読むなら楽しいかも。