- 書名: いま、抗暴のときに (講談社文庫)
- 作者: 辺見庸
- 出版社: 講談社
- 出版日: 2005-08-12
- 定価: ¥ 520
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レビュー
人倫の根源を問い続けることができるか?
著者は本書で、「人倫の根源を問い続けることができるか? 国家テロである米国の戦争虐殺行為を彼岸の事としてルーティンワークに埋没せずに、アフガンやイランの爆撃の下の出来事を想像できるか?」と訴えかけてきました。
奇妙なことに、「人倫の根源を問い続けることができるか?」が「君は生き延びることが出来るか?」というガンダムの有名なナレーションにダブりました。君は(正しくこの病んだ時代を)生き延びることができるか?と聞こえるのです。
大前研一氏、船井幸雄氏、佐藤優氏から社会人としての生き方に大きな影響を受けましたが、今、辺見庸氏の著書と生き様が最も私に強いプレッシャーを投げかけます。
本書は2002-3年にサンデー毎日に掲載された「反時代のパンセ」が主となり構成されていますが、今でも十分に読み応えがあり、特に社会人の方には、新入社員でも戦前生まれの方でも、戦争や思想に関する深い見識と著者の洞察を得られるだけでなく、自身の生き様を深く考えさせてくれる点でも強くお薦めします。
以下、本文より抜粋
・国家というのはその根源において、死刑執行と戦争発動を闇の回廊で秘かに繋いでいる。
・ポーランドの詩人、シンボルスカは共同通信のインタビューに「どの世代にも2種類の人間がいる。個人としての魂を持つ人と、自分独自でなく集団的な魂を持って生まれる人」と答えている。
・北朝鮮憎しというナショナルな義憤が盛り上がれば盛り上がるほど、政治力学的には朝鮮半島への日本の歴史的な責任を忘却の彼方に追いやることができ、厳然たる歴史的諸事実そのものさえ、「新しい歴史教科書をつくる会」や三浦朱門のように修正してしまうことが可能な空気ができている。
・ウンベルト・エーコ風に言えば、「ファジーな全体主義」の醸成には必ずマスメディアがあり、それと主観的には意識せずに情報消費者の意識を収奪し、メディアが読者や視聴者と相乗的に意識を劣化させていく。
辺見庸を受容することの意味
『いま、抗暴のときに』は、辺見庸の所謂「抵抗三部作」の第2作目に当たる。“抗暴”とは、「自由のための持久的な抵抗を端的に表わす名詞」が日本語にないため、「反動的な暴力に抗い、反撃するといった意味」である中国語から借用し(『抵抗論』)、アメリカ等によるイラク侵攻などの理不尽、不条理な暴力や殺戮に対して、抗いの言葉を鋭く放っている。
さて、辺見庸の作品群と対峙すると、己の思想性が確かめられる。そして、一般的には、辺見は「左」に位置していると思われているだろう。だが、『抵抗論』でも述べているとおり、彼の立っている位置は不変で、彼の目にする状況が「右」に流れているため、状況に置き去りにされているのだ。そのことが「左」であるかのような幻影を与えている。
彼はまさしく、日本の戦後的な理念といえる「国家からの自由」等を保守しようとしていることからも明らかなごとく、「戦後民主主義」の申し子である。そういった脈絡で、彼が前掲書で語ったように、極めて“保守的な人間”であり、そのパラドキシカルな“保守性”の故に、佐伯啓思的なコンテクストで措定すれば“ラディカル”なのである。
私にとって辺見庸は、己自身を映す鏡でもある。さらに、彼は「右」傾化するこの国において「沈黙と傍観」を峻拒し、戦後の特殊日本的な価値を称揚賛美する側、幻影的ではあるが「左」側の“重し”の役割も結果的には果たしている。この“重し”の意義を想到すれば、彼の論理や感性に多少の偏向や逸脱があっても、私は辺見を受け入れたいと思う。
